○徳政相論
「・・・勅ありて参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣(おつぐ)と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道(まみち)とをして天下の徳政を相論せしむ。時に緒嗣、議していわく、「方今、天下の苦しむところは軍事と造作となり。この両事を停めば百姓安んぜむ」と。帝
、緒嗣の議を善しとし、すなわち停廃に従う。」
→軍事と造作に尽きる。軍事は蝦夷征討。東北遠征でも可。造作は平安京造営である。帝が桓武天皇であることも必須。なお造作(平安京造営)は実際に中止されたが、軍事(蝦夷征討)はこの後も続けられた。
○律令格式
「・・・律は懲粛をもって宗となし、令は勧誡をもって本となす。格はすなわち時を量りて制を立て、式はすなわち闕(か)けたるを補い・・・」
→やや難問である。赤字の空欄補充である。
○尾張国郡司百姓解文
「尾張国郡司百姓ら解し申し、官裁を請うの事。
解裁断せられんことを請う。当国の守藤原朝臣元命三か年の内に責め取る非法の官物、ならびに濫行横法三十一か条の愁状。
永延二年十一月八日 郡司百姓等
→尾張国、藤原朝臣元命が空欄。ただし、藤原元命で○をくれる。「郡司百姓」という言葉で分かって欲しい。永延二年は988年である。
○受領の貪欲
「今ハ昔、信濃ノ守藤原ノ陳忠ト・・・『受領ハ倒ル所ニ土ツカメ』トコソ云ヘ」(『今昔物語集』)
→藤原陳忠を答させる場合もあるが、基本的には受領の貪欲を記した『今昔物語集』の話だと分かればよい。
○大名田堵
「三の君の夫は、出羽権介田中豊益、ひとえに耕農を業となして、更に他の計なし。数町の戸主、大名の田堵なり。かねて水旱の年を想いて鋤・鍬を調え・・・」(『新猿楽記』)
→大名田堵と出典でとりあえず可。
○遣唐使の廃止
「諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめむことを請ふの状
右、臣某、謹みて在唐の僧中灌(ちゅうかん)、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到る所の録記を案ずるに、大唐の凋弊、之を載すること具なり。・・・・・臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪へざりし者有り、或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。・・・・臣等伏して願はくは、中灌の録記の状を以て、遍く公卿・博士に下し、詳らかに其の可否を定められむことを。
寛平六年九月十四日 大使参議勘解由次官(かげゆのすけ)従四位下兼守左大弁行式部権大輔 春宮亮(とうぐうのすけ)菅原朝臣某」(『菅家文草』)
→遣唐使が空欄補充になることあり。臣某とはもちろん菅原道真、大使も遣唐大使であり同じである。本編(原始〜奈良時代編10『遣唐使と天平文化』)で「遣唐使廃止の理由」として「唐の衰退」と「航海の危険」をあげる一方で、「本当は唐は治安が悪化しており、着いてからの方が危なかったのだ」と述べたが、大唐の凋弊→唐の衰退、海を渡りて命に堪へざりし者有り→航海の危険、賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り→唐の治安の悪化と書かれている。「詳らかに其の可否を定められむ」とはもちろん、遣唐使の廃止の可否である。寛平六年が894年なのは言うまでもない。
○三善清行の意見封事十二箇条
「臣某言す。・・・。臣去る寛平五年備中介に任ぜらる。彼の国下道郡に邇磨郷有り。・・・一郷を以て推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。」
→臣某とは三善清行。介は国司の次官。邇磨郷がキーワードとなる。「延喜の治」と讃えられた醍醐天皇の時の話だと知っておきたい。
○藤原道長の栄華
「(寛仁二年十月)十六日乙巳、今日、女御藤原威子をもって皇后に立つるの日なり。(前太政大臣の第三の娘なり、一家三后を立つは未曾有なり)・・・太閤、下官を招き呼びていわく、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」者。・・・。「この世をばわが世とぞ思う望月ののかけたることもなしと思えば」(『小右記』)
→寛仁二年は1018年。一番近い出来事で選ばされるのは刀伊の入寇(1019)である。太閤は藤原道長。下官は筆者藤原実資である。『この世をば・・・』の歌は絶対的キーワード。出典の『小右記』は出来なければ、自分だけだと思って良い。
○寄進地系荘園
「鹿子木の事
一、当寺の相承は、開発領主沙弥、寿妙嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流高方の時、権威を借らんがために実政卿をもって領家と号し、年貢四百石を以て割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。
一、実政の末流願西微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西、領家の得分二百石を以て、高陽院内親に寄進す。・・・御室に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。・・・
」(『東寺百合文書』)
→赤字はすべて空欄補充。鹿子木荘があった肥後国は現在の何県かという問題もある。熊本県である。
○往生要集
「夫れ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。」
→イントロクイズ。
○古今和歌集仮名序
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして・・・」
→イントロクイズ。
2004.10.10加筆