史料『建武新政〜室町時代の一揆』のポイント

建武新政
 「・・元弘三年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。の御聖断は延喜・天暦のむかしに立帰て・・・今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし。・・・公家に口ずさみあり。尊氏なしという詞を好みつかひける。」
 元弘三年は1333年。後醍醐天皇延喜・天暦のむかしから延喜・天暦の治の醍醐・村上天皇とその時代の状態を聞いてくる。「朕が・・・」はキーワード。尊氏は空欄。なお出典は、足利氏の立場から書かれた『梅松論』である。

二条河原の落書
 「此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨・・・モルヽ人ナキ決断所・・・」(『建武年間記』)
 イントロクイズです。絶対出来なければならない。決断所雑訴決断所。出典の『建武年間記』もたまに聞かれる。

建武式目
鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きや否やの事。」
 イントロクイズ。17箇条あるが、これは幕府再興の施政方針を示したものであって法令ではないことは、頻出。

半済令
 「次に近江・美濃・尾張三箇国、本所領半分の事、兵粮料所と為し、当年一作、軍勢に預け置くべきの由・・・」
近江・美濃・尾張はすべて答えられなければならないが、空欄補充の場合はなぜか、真ん中の美濃が抜かれることが多い。出典は、これぞ『建武以来追加』である。

日明貿易
 「日本准三后某、書を大明皇帝陛下に上る。・・・肥富祖阿に相副へ・・・」(『善隣国宝記』)
 日本准三后某はもちろん足利義満。肥富祖阿は空欄補充もある。出典の『善隣国宝記』は、筆者の瑞溪周鳳とともに聞かれる。

惣掟
 「定 今堀地下掟の事
 一 ヨリ屋敷請候て、村人ニテ無キ物(者)置くへからさる事」
  これは惣掟のことだと分かるでしょう。「此旨に背く村人ハヲヌクヘキなり」という部分があるが、ここでいう座とは宮座のことである。

室町時代の一揆『本館』の「室町時代編4・・・庶民の台頭」をさらに詳しくしました。)
(1)
「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋・土倉・寺院らを破却せしめ・・・管領これを成敗す。・・・土民蜂起是れ初めなり」(尋尊『大乗院日記目録』)→正長の徳政一揆(土一揆)(1428)=近江坂本の馬借一揆が発端→徳政令要求(空欄補充は「徳政」)→酒屋・土倉・寺院を襲撃→私徳政(徳政令は出ていない)。なぜ寺院も襲撃されたのか→「祠堂銭を使って高利貸しを営んでいたから」。成敗した管領=畠山満家
(2)「正長元年ヨリサキ者 カンヘ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」(『柳生街道徳政一揆の碑文』)→正長の徳政一揆
(3)「播磨の国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し・・・およそ土民侍をして国中に在らしむべからざる所と云々。・・・よりて赤松入道発向しおわんぬ。」(『薩戒記』)→播磨の土一揆(1429)=旧冬の京辺の如く→正長の徳政一揆の翌年。徳政一揆ではない(徳政令を要求していない→正長と嘉吉は徳政一揆と答えても、土一揆と答えても可)
(4)「・・・代始めに此の沙汰先例」→嘉吉の徳政一揆(土一揆)(1441)=嘉吉の乱に乗じて。此の沙汰徳政令幕府、初めて徳政令を発布
(5)「(文明十七年十二月)・・・今日山城国人集会す・・・今度両陣の時宜を申し定めんが為の故と云々・・・下極上のいたりなり」(『大乗院寺社雑事記』)→山城の国一揆(1485)=平等院に集会。両陣とは南山城で争っていた守護畠山政長畠山義就の軍。この守護畠山氏を南山城から追放し、年間の自治
(6)「(長享二年)其越前合力勢賀州に赴く・・・富樫城を取り巻く。故を以て、同九日城を攻落さる。皆生害す。而るに富樫一家の者一人これを取立つ」(『蔭涼軒日録』)→加賀の一向一揆(1488)=越前強力勢→援軍の朝倉氏の軍勢。富樫政親自刃。富樫一家の者一人富樫泰高が名目上の守護。1世紀の自治。本願寺(蓮如)の領国のよう。
(7)「百姓とり立て富樫にて候間、百姓のうちつよく成て近年百姓のもちたる国のよう・・・」(『実悟記拾遺』)→加賀の一向一揆

(2005.9.17追記)

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