分岐点にて
進路をどうするか。これは何歳になっても直面する。高校、そして大学、就職、伴侶・・・。今、君たちはその大きな一つと向かい合っている。
大学の3年生の秋、考古学の都出比呂志先生に飲みに連れていっていただいた。その席で、
「野澤君、考古学をやらないか。」
「ぼくは民俗学がやりたいです。」
「そうか・・・。
(一口飲んで) よし!
じゃあ、民俗考古学をやれ。」
「ぼくが不器用で製図が下手なのはご存じでしょう。」
「そんなものは、練習すれば誰でも書けるようになる。」
しかし結局、お断りした。
後になってそのことを知った先輩方からは、呆れられた。
「飲みに連れていってもらって断ったのは、後にも先にもお前だけだろう。」
考古学の院生は全員、先生の「一本釣り」であった。
そしてぼくは、近世の御霊信仰(祟り神)をテーマに選び、高校の教員になった。
これは天職だと思っている。生徒の言動が気になり、進路の結果に一喜一憂する。体育祭や文化祭では一緒に燃える。『壇の浦』などの場面で泣いてくれると単純にうれしい。(「女子生徒を泣かせて喜んでいる。」とも言われるが。)
新規採用の教員になって、全くの素人で始めた登山部の顧問にも「はまった」。インターハイの表彰式で、選手の首にメダルがかけられていくのを見ながら、本当に泣いた。クラスにいた女子と、登山部で指導した男子が結婚した日なんか、式で親のような気分だった。
「世の中に、学校の先生ほど素敵な商売はない」
と迷わず言える。
あの時、都出先生のお誘いを受けて考古学の道へ進んでいたら、今頃何をしているのだろう。
「釣られた」先輩方は、みんな立派な研究者になっているから、ぼくもどこかで『泥んこ遊び』をしているのかもしれない。(都出先生は「考古学なんてのは、小さいころに『泥んこ遊び』が足りなかった奴が、大人になってからやってるんだ。」と言われていた。)
それでも、ぼくの人生そのものは、あまり変わってなかったんじゃないかと思う。もちろん別の街に住み、別の女性と結婚していたかもしれない。仮にそうであったとしても、人生の大きな流れとでも言うようなものは、あまり変わらなかったのではないか。
受験は「オール・オア・ナッシング」であり、合格最低点でも通った者の勝ちである。この点は持論に迷いはない。
しかし、分岐点でどの道を選ぼうとも、たとえ受験の結果で回り道をすることになったとしても、その人の本質的な部分が変わらない限り、人生そのものはたいして違わないのではないか、と最近思う。
2003.1.27
このページを見てくれている皆さんへ 野澤道生