頂いた質問から(20)

なぜ後三条天皇は荘園を財政基盤にしなかったのか。
なぜ上皇まで寺院に多くの荘園を寄進したのか


 大阪府に住む高校3年生の男子生徒から、次のような質問を受け取った。

 三条天皇は延久の荘園整理令を出しましたが、鳥羽上皇や後白河上皇は、荘園を寺院などに寄進して財政基盤としていたと教科書に書いてありました。
 なぜ、上皇までもが寺院に荘園を寄進する必要があったのですか?
 またどうして後三条天皇は荘園を財政基盤にしなかったのですか?


  彼がいう教科書の記述は、『詳説日本史』(山川)のp89の脚注にある

 
上皇は,近親の女性を院と同じく待遇(女院)して大量の荘園を与えたり,寺院に多くの荘園を寄進したりした。たとえば,鳥羽上皇が皇女八条院に伝えた荘園群(八条院領)は平安時代末に約100カ所,後白河上皇が長講堂に寄進した荘園群(長講堂領)は鎌倉時代初めに約90カ所という多数にのぼり,それぞれ鎌倉時代の末期には大覚寺統・持明院統に継承され,その経済的基盤となった。

を指しているのだと思う。素直に読めば、

 「治天の君」であり、最も権力があったはずの上皇が、なぜ多くの荘園を寺院に寄進しなければならなかったのか。

 
後三条天皇は、荘園整理を断行し、大寺院である石清水八幡宮でさえも3分の1の荘園を停止されるほどの力を見せたのに、自分が鳥羽や後白河のように皇室領荘園をつくって財政基盤にしようと考えなかったのか。

と思うだろう。同じような疑問を持っている受験生は、結構多いのではないかと考え、質問者に返信した内容を紹介することにした。

 

 先に、「後三条天皇が荘園を財政基盤にしなかった理由」を説明します。

 天皇家が最大の荘園領主となれたのは、後三条天皇が延久の荘園整理令を出して、荘園整理を断行した結果だからです。

 1040年以降、朝廷は、内裏造営の経費を調達するために荘園整理令を繰り返し出していました(平安時代、内裏は何度も何度も焼失しました)。この荘園整理の断行を徹底したのが、後三条天皇です。
 後三条は、内裏造営費を稼ぐために、中央に記録荘園券契所を設けて、天皇主導で荘園整理を断行しました。荘園として許可されているという証拠書類(券契)の提出を迫り、証明できない荘園を停止しました。その例が、『詳説日本史』ならp86の脚注に記されている「石清水八幡宮領では、34カ所の荘園のうち21カ所だけが認められ、残りの13カ所の権利は停止された」です。
 しかし、逆に言えば残った21カ所に対しては、朝廷はもう手出しができなくなったのです。このようにして、土地は公領か荘園かのいずれかに明確に分けられる「荘園公領制」が、鳥羽上皇の時代に成立していきます。

 この後三条の政策は、以後も繰り返されました。これにより「
荘園の認否は天皇の権限」であることが明確となりました。
 荘園の認否が天皇の権限ということになると、安定して荘園を保持できるのは、天皇家と、その天皇家も簡単には手が出せない摂関家や、延暦寺・興福寺・伊勢神宮などの超有力寺社に限られてしまいます。
 つまり、中下級貴族や地方の有力者が安心して私領を寄進できる対象は、天皇家、摂関家、有力寺社だけになったのです。これが『詳説日本史』のp89の本文に書かれている

「とくに鳥羽上皇の時代になると,院の周辺に荘園の寄進が集中したばかりでなく,有力貴族や大寺院への荘園の寄進も増加した。」

です。つまり、
後三条天皇の荘園整理の結果、天皇家は最大の荘園領主となったのです。これが後三条と鳥羽・後白河の時代との違いです。


 次に「
なぜ、上皇までもが寺院に寄進する必要があったのか」について説明します。

 そもそも、11世紀後半から12世紀にかけて多くの荘園ができた原因は、天皇家や摂関家が大規模な寺院をたくさん造営したからです。その代表が六勝寺です。白河天皇が建立した法勝寺は知っていますね。
 この寺院の維持費を稼ぐために上皇や女院(上皇待遇を与えられた女性)たちが、「
寺院名義の荘園」をつくったと思ってください。
 寺院を建立するだけなら受領たちの成功でできます。これは『詳説日本史』だと、p88に

「上皇は仏教を厚く信仰し,出家して法皇となり,六勝寺など多くの大寺院を造営し,堂塔・仏像をつくって盛大な法会をおこない,しばしば紀伊の熊野詣や高野詣を繰り返した。また,京都の郊外の白河や鳥羽に離宮を造営したが,
これらの費用を調達するために成功などの売位・売官の風がさかんになり,行政機構は変質していった。」

の部分です。しかし、建ててしまうと今度は維持費が必要になります。
 そのためにつくられた「
寺院名義の皇室領荘園」の代表が長講堂領です。と言っても、実際には建ててしまった後、維持費の心配をしたのではなく、維持費をまかなうための荘園づくりは、寺院の建立計画と併行して行われていました。

 教科書には「後白河上皇が長講堂に寄進した荘園群」と書いてありますが、本当に寺院のものになったのであれば、「長講堂領が持明院統に受け継がれる」などということは起こりえないでしょう。
長講堂領は、寺院名義の天皇家の荘園だということです。

  受験生の理解を助けるうえで、少しでも役に立てば幸いである。
  
 

 2020.6.13

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