頂いた質問から(9)

『海禁政策と出会貿易』

 千葉県の高校2年生男子生徒さんから、すごく素朴でかつなるほどと思う質問をいただきました。答の結論をいうと「な〜んだ・・・」なのですが、意外に盲点ではないかと思い、掲載することにしました。

<頂いた質問>

海禁政策とは一種の鎖国のことで、所謂私貿易の禁止のはずなのに、何故出会貿易と言うのが可能だったのですか?

<野澤の回答>

  一言で言うと、「密貿易」なのです。
 海禁政策とは、正式な朝貢船以外との貿易を制限し、中国人の海外渡航を禁止することであり、治安維持や倭寇対策として行われました。 だから、正式な朝貢船として「勘合」が必要だったのであり、正式な朝貢船として活動する「琉球船」が中継貿易で活動する場を得たのです。
 教科書では織豊政権あたりで海禁政策→出会貿易と出てくるので、明末・清初に行われた政策のように錯覚しがちですが、明は建国当初から基本的には制限貿易(海禁)なのです。
 教科書(山川出版社)に

後期倭寇には、中国人などの密貿易者が多かった。彼らは、日本の銀と中国の生糸との交易を行うとともに、海賊として広い地域にわたって活動した。

とありますが、これと出会貿易を結び付けて考えると分かりやすいのではないでしょうか。

 さらに発展的なことをいうと、後期倭寇、出会貿易を盛んにさせた原因には、寧波の乱(1523)がありました。この事件によって海禁が強化されると、密貿易に従事していた人々は、武装密貿易や海賊活動に転じました。そして中国東南の沿海には密貿易の拠点が出現し、日本の博多商人や東南アジアのポルトガル人らが参加します。
 桐原書店の教科書にでてくる後期倭寇の頭目の1人である
王直など、中国人でありながら日本に拠点を持つ者もでてきます。彼は地方官吏や郷紳(官僚の故郷での呼び名。政治・社会・経済的に強い影響力を持った)とも関係を持っていましたから、後期倭寇が明の全国民の敵だったとは言い難く、反体制的な貿易商人の側面も否定できません。
 (余談ですが、種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは、ポルトガル人を乗せた中国船ですが、それに王直も乗っていました。)

 彼らの活躍により、海禁政策の中で、密貿易としての出会貿易が展開されました。

 なお、後期倭寇は明将戚継光らの制圧で沈静化し、明は1567年には海禁を解除して民間交易を許可します。その結果、大量の銀が明国内に流入するようになり、中国経済に大きな影響を与える事になりました。

2007.7.16

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