コラム『蕎麦に思う』

 池波正太郎の『男の作法』という本の中に次のような一節がある。

 そばというのはみんな各地によって違う。田舎そばと東京のそばは違うわけだよ。田舎そばって、うどん粉をあまり入れないで真っ黒いそばを手で打って、手で切って、パラパラになったようなそばもまたそれでいいわけなんだ。東京のそばのように細くて、ずうっとスマートにつくってあるそばも、それはそれでいいわけなんだよ。

 池波正太郎(1923〜1990)は言わずと知れた時代小説の大家である。ぼくのHPでも、「しかしこんなこと、本当に出来る奴いたのか!?『剣客商売』か?」なんて使わせてもらっている。(エピソード『じっと我慢の子であった』)

 この一節は懐かしい思い出を蘇らせてくれた。今までもコラムで何度か触れてきたが、ぼくは新規採用教員の時、まったくの素人で登山部の顧問になり、「はまって」しまった。その後インターハイや国体へ何度か行くことができ、随分と楽しい経験をした。今、登山部のない学校に勤務しているためだいぶ縁遠くなってしまったが、その山の思い出である。

 石鎚山の登山口のすぐ近くに、通称「ふじわらみせ」というのがあった。おばあさんが1人で営んでいた。彼女は、店兼住居の裏に小さな畑を持っていて、そこで蕎麦を栽培していた。店で蕎麦を頼むと、おばあさん手作りの蕎麦が出たのである。
 それこそ池波正太郎の文章にあるような黒く、太く、手でちぎったような麺に、例えばイタドリのような季節の山菜が乗せられていた。
 舌触りはざらざらで、決して町中の蕎麦専門店で食べるようなスマートな味ではなかったが、何とも言えない不思議な美味さがあった。きっと本来の蕎麦というのはこういうものだったんだろうなと思った。本当に手作りだったので、何時行ってもあるというわけではなく、入山の時に「何日後の何時ごろ下りてくるから、お願いします。」と言って、山へ入ったものだった。

 ぼくが最後にその「ふじわらみせ」を訪れたのは、偶然にも閉店する日であった。いつものように尋ねていくと、「町にいる息子夫婦がもう山を下りて一緒に住もうと言ってくれるので、午後には閉めるんです。」と、おばあさんは申し訳なさそうに、でもどこかうれしそうに言った。
 ぼくは「そうですか。でもよかったですね。」と口では言いながら、もうあの蕎麦は食べられないのだなと思った。

 受験で「そば」が問われることがあるとすれば、鎌倉時代は二毛作→米・麦、室町時代は三毛作→米・麦・そば ぐらいであろう。(『鎌倉時代編3 武士の生活/地頭の荘園侵略/産業・経済』参照)

 しかし日本人の生活の中に定着したのは江戸時代、俗に言う二八そばが普及したころであった。
 二八そばの語源には大きく分けて2つの説がある。一つはそば粉とつなぎで使う小麦粉の分量が8:2だからという説。もう一つは1杯16文だったのを洒落て2×8=16からきたという説であるが、明らかではない。このことは落語の「時そば」の枕でも語られることがある。「時そば」で一番有名なシーンは、男が蕎麦屋で勘定をごまかす場面であろう。

 男  「いくらだい?」
蕎麦屋「ええと、具入りで、十六文です。」
 男  「銭が細けえんだ。お前さんの手に置くから、手をだしてくんねえ。」
蕎麦屋「へい。これに願います。」
 男  「十六文だったな?ひー、ふうー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー、何刻(なんどき)だい?」
蕎麦屋「エー、ここのつ(九刻)で。」
 男  「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六・・・じゃ、あばよー。」

 もっともこの落語が作られたのは江戸時代ではなくおそらくは明治になってからであり、5代目柳家小さん(1915年〜2002年)の十八番として有名になった。
 しかし蕎麦が江戸時代、鮨屋(すしや)などと同じようなファーストフードの屋台で庶民になじみの食品となったことは事実である。江戸は参勤交代のため単身赴任の男が多い、いびつな人口構成の町であり、元禄期にはすでに「さけさかな」の看板をだす今でいう定食屋もできていた。そしてこの時代に蕎麦は、次第に我々になじみの小麦粉でつないだ細くて口当たりの滑らかな白い蕎麦となっていった。

 そう考えると平成の時代になって、いかにも「蕎麦」というものを味わうことができたのは僥倖であった。
 池波正太郎風に言えば、「田舎は田舎のよさがあっていいんだよ。」といったところである。

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