頂いた質問から(1)
『どう違うのか−院宣と院庁下文/大政翼賛会と翼賛政治会−』

 今までにこのHPに頂いた質問には、様々なものがありました。

 こちらも唸る様なものとしては、日本史を楽しんでいる、ぼくの教え子と同姓同名の主婦の方からの「茶壺道中について」「江戸城の大溜について」「御夜詰引について」「大久保利通と大阪遷都案について」というような、マニアックなものもありました。ぼくも気合が入って、つい長々と返事を書いてしまいましたが、まあ、受験にはでません

ここでは受験生にも関係があるかな、と思うもののみ上げておきます。

まずは先述の主婦の方からの

院宣と院庁下文の違いがよく分からない」

というものです。ただし、山川の教科書の記述(脚注)や、

院宣=院司が上皇の命を直接承って出す文書
院庁下文=上皇の命を受けて院庁から出される文書

ということは理解した上での質問でした。(受験ではここまで分かっていれば十分過ぎるほどです)
それに対して、下記のように回答しました。

  簡単にいうと院宣は天皇でいうところの「綸言」あるいは「宣旨」であり、また摂関政治全盛時代の「御教書」(みぎょうしょ)にあたると考えていいのではないでしょうか。
 現在、アメリカ大統領の年頭の施政方針演説などを日本語では「教書」と訳していますが、これなど言い得て妙な訳だと思います。 つまり、大統領教書はあくまでも大統領個人の意見に過ぎず、議会に対してなんら法的拘束力を持つものではないのですが、アメリカの政治に大きな方向性を与えます。 綸言も本来は天皇個人の私的な言葉に過ぎないのですが、「綸言汗の如し」という言葉にも見られるように、実際には公式な命令書である「詔勅(勅書)」と同じような効果を持ちました。
 それに対して「院庁下文」は、中務省が正式に出す「詔勅」のようなものだとぼくは理解しています。(違っていたらすみません。)

 

 また、現役受験生の方(本人の弁では「受験まっしぐらでございます(泣)」)から、次の様な質問がありました。

 「大政翼賛会と翼賛政治会の違いについてですが、 大政翼賛会は早い話戦争遂行のために作られた機関ですよね。で、翼賛政治会を単語集で調べてみたら、 東条内閣の時に結成され軍の傀儡となったとあります。・・・根本的な構造は同じに見えるのですが、ぶっちゃけた話、違いがあまり分かりません。前者が近衛内閣、後者が東条内閣という差ぐらいしか・・・。勉強不足ですよね・・。」

 これについては、下記の様に回答しました。

 受験のキーワードは

「第2次近衛内閣、新体制運動、政党は解散」とあれば大政翼賛会
「太平洋戦争中、東条内閣、翼賛選挙」とあれば翼賛政治会

ですから、それだけ分かっていれば十分です。少し補足するなら大政翼賛会は、ドイツのナチス党のような一国一党体制を作ろうとしたのですが、実際は政治組織にまで発展しませんでした。(しかし 隣組や町内会などを下部組織として、戦争遂行のための強力な上意下達機関となりました。)
 それに対して、翼賛政治会とは、東条内閣のもと1942年に行われた総選挙で、多数当選した政府の推薦候補たちで結成された唯一の政治結社です。見た目には大政翼賛会が目指した様な、一国一党体制がつくられたと言えます。
 簡単に言うと、大政翼賛会が目指して果たせなかったものを、(当選議員が決まってから政党が出来るという本末転倒したかたちではあるけれど)実現したものが翼賛政治会だといえます。  

 このほか、

「私の高校で使ってる三省堂の詳解日本史Bには明治十四年の政変が14年とアラビア数字で明記されていたのですが、どちらが正しいのでしょうか。センターだけならまだ しも、記述の時はどっちが正しいか本気で迷いますし・・。」→どちらでもかまいません。要は「明治14年に起こった政変」ですから。(これで「十四年、あるいは14年のどちらかでなければ駄目だ」といったら、採点官の見識が疑われます。)

といったようなものがありました。長くなるのでとりあえず今回は、ここまでとします。

2003.12.28

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