『古今 酒を讃(ほ)むる歌−大伴旅人と俵万智ー』

  ぼくのことをご存じの方には、今更言うまでもないことだが、ぼくは酒が大好きである。我ながら呆れるぐらいだが、「今日は休肝日にしよう。」と、朝思っても、それを実行するにはもの凄い努力を要する。

 「酒とかかわりの深い詩人・歌人は」と問われて、一番に思い浮かぶのは、李白エピソード「月下独酌」参照)、そして大伴旅人である。大伴旅人は『万葉集』の編者といわれる大伴家持の父である。

 彼の作品の中に、「酒を讃(ほ)むる歌十三首」というシリーズがある。中でも有名なのは、

験(しるし)なき ものを思はずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし (巻三−三三八)

であろう。「甲斐のない物思いなんかしないで、一杯の濁り酒を飲んだほうがよっぽどいい。」という意味である。この歌については、日本人の現世享楽的な思想が良く出ている、と書いている本もあるそうだが、故犬養孝先生は次のように言われている。

「この歌の中には悲しみがあります。口に出していちいちいわないけれど、やりきれない、物を思うことがいっぱいある。・・・今は亡き妻の事を思い、そしてまたわが家の没落を思い・・・(略)この人の悲しみを見なかったら、酒を讃むる歌は、理解できないのではないか」

そのように考えると

なかなかに 人とあらずは 酒壷に なりにてしかも 酒に染みなむ (巻三−三四三)

(酒壺になりたい。そうすればずっと酒に漬かっていられる)という歌にも、深みが出てくる。

(確かに本当に苦しいこと、悲しいことはなかなか口には出せないものである。酒を飲みながら、「俺、さびしいんだ。」と言っている男に、本当に寂しい奴をぼくは見たことがない。大抵はグチを聞いて欲しいだけか、悪くすれば自分の過去の傷を、女を口説く材料にしているような、ぼくが一番嫌いなタイプの奴だったりする。)

 閑話休題

 時は変わって現代、最も酒を上手に使う詩人(歌人)だと、ぼくが考えているのが俵万智である。俵万智についてはエピソード「『みだれ髪』と俵万智」でも取り上げている。酒を使った歌としては、大ヒットした

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの (『サラダ記念日』)

が有名である。しかし、

地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜ひゃくねんたったらだあれもいない (『チョコレート革命』)

缶ビールなんかじゃ酔えない夜のなか一人は寂しい二人は苦しい (『チョコレート革命』)

などは唸る。『チョコレート革命』というタイトルは

男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす 

という歌からから来ているだけになおさらである。

 そして、今、ぼくがどう読み解くべきなのだろうかと考えている歌が次である。

四国路の旅の終わりの松山の夜の「梅錦」ひやでください (『かぜのてのひら』)

 最初は、自分の住んでいる街が読まれているので、目に止まっただけだった。俵万智自身は、「四万十川を訪ねる旅をして四国をめぐり、最後の夜は松山で過ごした。梅錦は名高い酒だが、私はこのとき初めて味わった。地元で味わう銘酒は、最高のぜいたくだ。」としか述べていない。それでも彼女には、

一枚の葉書きを君に書くための旅かもしれぬ旅をつづける (『もうひとつの恋』)

とか

かつて会いかつて別れし我らゆえ優しく飲める夜と思えり

とかいう歌があるので、考えてしまう。

 いずれにせよ、わずか31文字の言葉から、これほど様々なことを思いめぐらすことができる和歌は、やはり日本の誇るべき素晴らしい文化だと思う。

2003.9.29   

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