『一枚起請文と説法』

 昨日(五月五日)、妻の実家で、祖父の一周忌の法要が営まれた。宗派は、浄土宗である。

 昨年の葬儀の時もそうであったが、妻の実家を檀家としている寺の和尚様は、参列者にA4版の経文のテキストブックを渡す。僧侶が唱える経文が大きな文字で書かれており、フリガナもうってある。座する者は、それを見ながら一緒に経文を唱えるのである。(ちなみにぼくの実家は日蓮宗だが、宗教的な束縛から自由なのが、ぼくのよさだと思っている。だから念仏題目も口にして平気である。)

 法要には、五歳になるぼくの娘も参加した。一人前にテキストブックを手にして、見よう見まねで頑張っていた。

「次は31ページをあけてください。」

という和尚様の声に、一生懸命ページを探す。その様子を和尚様は柔和な表情で見守り、娘が開いたのを確認してから、「それでは」と続けられた。

 テキストの中には『一枚起請文』もあった(別館史料のポイント編参照)。史料集で何度となく見てきた文章であったが、自分でそれを声に出して読むと、不思議な感慨があった。

「・・・ただ往生極楽のタメニハ南無阿弥陀仏と申て疑なく往生スルゾと思とりて申外には別の子細候はず。・・・」

「・・・ナムアミダブ、ナムアミダブ、ナムアミダブ、南無阿弥陀仏〜」

読経が終わった後、和尚様は微笑みながら娘に年齢を尋ね、こう言われた。

「今日は、一生懸命、南無阿弥陀仏と言ってくれてありがとう。ひいおじいさんも、きっと喜んでいらっしゃると思いますよ。」

それから、大人たちに向かって、

「こういう法要の時は、小さい子どもは入れないことがよくあります。しかし、私は一緒でいいと思います。もっと小さくて何をやっているのか分からないお子さんでも、大人たちが集まって、お線香やロウソクが燃えていて、頭がツルツルの人が座っている。何だろう、見ると会わなくなったおじいさんの写真が置いてある。何のことだか分からなくても、幼い心にもその印象は残る。それが大切なのだと思います。」

そして、穏やかに人の死について語られた。

親と分かれる辛さ、子どもを置いていかなければならない苦しさ・・・。しかし、「一切皆苦」が私たちの人生なのだ。苦しみの向こうにこそ喜びがある。

子どもに自分の死をありのままに見せることが、親が子どもに対してできる最後の贈り物なのです。

泣いてしまった。

この和尚様のファンになりそうだ。

同時に、仏教史に改めて興味が湧いた。  

2003.5.6   

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