学ばなければ決めることもできないー文民統制とは何かー


 2002年12月11日付の『Newsweek (日本版)』に次のような記事があった。

 神戸大学の学生たちと教官が、自衛官とともに、「安全保障の研究」というセミナーを、構外で行った。教官も同席するセミナーがなぜ、学内で行えないのか。それは、セミナー開催を知った一部の学生が、法学部長に抗議。「学生を戦争に追い立てるな」といった主張を掲げ、研究の中止を求めたことを受けて、大学側は校内での研究を認めなかったためである。
 セミナーへの抗議行動で、ある学生は「これは教育ではない! 戦争についての議論など許されない!」と叫んでいた。

 これを見た時、中学生の時読んだ星新一の『白い服の男』という作品を思い出した。記憶が正しければ、こういう内容だったと思う。

 近未来の世界。戦争に懲りた人類は、社会全体に秘密警察の網をはりめぐらしていて、「戦争」という言葉を口にした者を「人類の敵」と呼んでリンチにかける。歴史書は書き換えられ、「戦争」などというものは存在しなかったことになり、扱った書物は反戦文学といえども焚書にされる。「戦争をなくし平和を実現するためには、人間の心の中から『戦争』という概念を抹殺しなければならない」と、主人公である秘密警察のメンバーは言う。そして、無邪気に戦争ごっこをする幼い子どもたちを、「平和を守るために抹殺」するところで、作品は終わる。

 一方、2003年1月末、五百旗頭真氏が「安保議論タブー視こそ危険」と題する文章で以下のようなことを述べている。

 戦前の軍国主義につながるとして安全保障や有事の研究が批判されることがあるが、これは戦前の教訓を学び間違えている。戦前、軍部の暴走を止め得なかった最大の理由は、政府と国民が軍事についての知識を持っていなかったため、軍部をコントロールしなかったことにある。その意味では安保議論をしないことの方が危険なのである。

 『文民統制(シビリアン・コントロール)』という言葉は知っていると思う。日本人がこの意味を痛感したのは、朝鮮戦争の時、原子爆弾の使用を主張したマッカーサー元帥を、アメリカ政府が解任した時であった。軍の最高指揮官の判断よりも、軍務に携わらない者の決定が優先したことは、日本国民にとって衝撃であった。

 なぜ、こんなことができたのか。 正しくコントロールするためには、現場の人間に負けない知識と、大所高所からの判断力が必要となることは言うまでもない。これはどの分野・世界においても共通している。

  当時のアメリカ政府のいわゆる『文民』たちは、朝鮮戦争の戦局の困難さだけでなく、原子爆弾という兵器の何たるか、それを使用することがどういう意味を持つのかも知っていた。だからこそ、太平洋戦争の英雄の主張に流されることなく、これを退けることができたのである。

 民主主義とは、思想・信条の自由を保証されていること。そしてそれを脅迫や暴力で、強制されたり、したりしないことである。セミナーに反対する学生と、五百旗頭真氏の意見のいずれに賛成するかは、君たち一人ひとりが決めることである。

 しかし、「学ばなければ決めることもできない」と、ぼくは思う。君たちが、歴史を学ぶことの意義の1つもそこにある。

(2002.2.2)

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