2007年度大学入試センター試験『日本史』問題解説

日本史B

第1問
問1.猫問。飛鳥文化を代表する広隆寺の半跏思惟像(弥勒菩薩像)、国宝第一号である。これをAの密教(平安初期)とか、Bの坐禅(鎌倉新仏教の禅宗)とか、ましてや弥勒菩薩が修験道に励んでいる姿だと思った人は、論外である。
問2.これも猫問。7世紀の朝鮮情勢については、エピソード『悲劇の天才−蘇我入鹿の再評価−』参照。B「親魏倭王」の称号を得たのが卑弥呼であることは言うまでもない。
問3.@塙保己一は江戸時代の盲目の国学者。A「遠野物語」で有名な民俗学の柳田国男は大正時代に活躍。B岡倉天心、フォノロサの師弟が明治時代なのは言うまでもない。
問4.アは三島由紀夫の小説を読め。イは本文中の「1949年に白鳳文化の絵画作品が焼損した」というのが法隆寺金堂壁画である。
問5.@は木簡、Aは「切支丹宗」と読み取れるように江戸幕府の教学政策を踏襲した明治新政府の太政官布告。Cは平安末期の扇面古写経である。

第2問
問1.Tは承和の変(842)で失脚した橘逸勢。Uは山上憶良の「貧窮問答歌」の一節(奈良時代)。Vは大化の改新で(645)で国博士に任ぜられた僧旻である。
問2.a百万町歩開墾計画(722)は元正天皇。bは743年、cは741年。dは孝謙天皇の時代に実権を握った藤原仲麻呂が橘奈良麻呂の変に前後して、757年に行ったことである。が、聖武天皇が国分寺建立の詔をだしたことも、大仏造立の詔とあわせて墾田永年私財法を出したことも、ともに高校入試のレベルである。
問3.朝鮮半島を伝う北路が安全。直接中国長江河口付近へ渡る南路は危険。でも、新羅との関係が悪化したため、やむを得ず北路をやめて南路にせざるを得なかった
問4.「蔵人のさけび!」(蔵人頭=嵯峨天皇=検非違使)。中国の国号を元としたのは、日本に攻めてきたフビライである。
問5.b上皇や貴族の熊野詣では院政期。c源信の「往生要集」は国風文化の時代に浄土教を広めた大ヒット作である。エピソード 『往生要集』参照。
問6.@の衛士は防人の誤り。それだけ。

第3問
問1.承久の変は後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発してスタート。後醍醐天皇が大覚寺統出身は基本中の基本。ということは北朝の光明天皇は持明院統である。
問2.@の評定衆を設けたのが3代執権北条泰時なのは常識。Aの宝治合戦(1247)は5代北条時頼の時、三浦泰村が滅亡。Bは承久の乱後に設けられた新補地頭の得分を定めた規定(ただし先例がない場合のみ適用)。Cは1213年のことである。というか、要は北条義時は侍所の別当であった和田義盛を滅ぼして、政所と侍所の別当を兼任して地位を固めたことが分かっていれば年代など知らなくても解ける。
問3.X記録所は後三条天皇の延久の荘園整理令の時にできた。Yはそのとおり。Zは貴族と武士の両方の立場を立てるために守護と国司を併置したことも、建武政権のもろさであったのだから、そのとおり。
問4.超猫問。@の「正法眼蔵」はもちろん道元。Aの踊念仏は一遍。Cの戒律重視は論外。
問5.鎌倉五山の一つでもある円覚寺でないのは当たり前なので、妙心寺が臨済宗か曹洞宗かという問題である。山川の教科書には林下の中心は「曹洞宗では永平寺・総持寺、臨済宗では大徳寺・妙心寺」と書いてあるが、そもそも林下とは五山の制に属さない禅宗寺院であり、曹洞宗の寺院が属さないのは当たり前。林下というのは「五山に属さない臨済宗の寺院」と記している参考書もあった。それから考えると、これで曹洞宗の寺院を選ばせたら悪問であろう。(解答はきっちり臨済宗を選ばせる良問であった。)
問6.@、Aはもちろん義満の時だから×。Bは室町幕府末期(戦国時代)であり×。Cの嘉吉の乱は常識であろう。

第4問
問1.「生まれながらに将軍の孫であった」とあるのに2代徳川秀忠を選んだら日本語が分かっていないか、家光が3代だと分かっていないことになる。イの五大老は豊臣政権であり、老中に決まっている。
問2.Bの海舶互市新例は、新井白石の正徳の治である。
問3.由井正雪の慶安事件が分からなかったら解ける問題はない。サービス問題だったね。
問4.ウは越後屋呉服店だから三井高利は絶対。エは高級織物といえば京都西陣織でしょう。
問5.@江戸は金遣い、上方は銀遣いは基本。Aは大坂〜江戸間を就航したのが菱垣廻船、樽廻船であったことを考えれば○ではないかと予測して保留。B江戸・十組問屋(えど・どくみ問屋と覚える)。C木綿は尾張木綿や河内木綿であり、菜種は田畑勝手作の禁で具体的にあげられた商品作物だから各地で作られていたことが分かるが、そもそも物流は上方から江戸への流れであって、江戸周辺で作られていた特産品は、野田・銚子の醤油ぐらいのものである。ここから消去法でもAと判断できる。
問6.今回これが一番難しいのではないか。1622年から1694年までの出来事の正誤である。Xシャクシャインの乱が江戸時代のことだということは知っていても、1669年まで覚えていたか。ぼく自身「室町時代の応仁の乱のころがコシャマイン(1457年で応仁の乱の10年前)、江戸時代はシャクシャイン」というのを強調してきた。これが元禄期だと分かったか。 Yこれは元禄文化の基本だが、化政文化だったかと不安になるところだ。問題はZである。天草・島原一揆が1637年なのは常識なので、○としたくなる。実はぼくもひっかかりかけた。しかし選択肢にすべて正はないので、踏みとどまった。よく見ると高山右近の旧領とある。天草・島原は有馬晴信、小西行長の旧領である。

第5問
問1.アは大同団結運動の中心を星亨と後藤象二郎のセットで覚えている受験生が多いと思うのでクリアできたのではないか。ちなみに片岡健吉は板垣退助とともに立志社をつくり西南戦争の最中に「立志社建白」をだした人物である。イは常識でしょう。
問2.Yは論外。立憲改進党は大隈重信なのは高校入試ででる。Zも論外。河野広中は福島事件のkeymanである。そうするとすべて「誤」という選択肢はないのでAだと判断できる。
問3.三大事件建白運動の三大事件とは「地租軽減、言論集会の自由、外交失策の回復」である。基本!
問4.猫問。V憲法発布に際して黒田清隆首相は超然主義を声明し、→U第1回帝国議会が開かれ、→T第4議会で建艦詔勅がでた。『近代編前期5 立憲国家の確立』参照。

第6問

問1.アは「今日は帝劇、明日は三越」という言葉、習わなかった?大正初期に三越百貨店の宣伝部長浜田四郎氏が帝劇とタイアップして作ったと言われるコピーである。三越はデパートでしょう。ちなみに日本のスーパーマーケットのはしりはダイエーの前身であり、戦後うまれた。イは森鴎外が剣客小説を書いたと思っていた人にはできなかったかも知れない。
問2.@減反政策は1970年だと分からなくても、戦後の高度経済成長期だということは分かるだろう。Bは東京にはモガがいたが、地方との格差は大きかった。C洋服は明治に軍隊で採用され、徴兵から帰った人たちが日常でも使い始めたことから一般に普及した。A三越デパートの展望レストランのカレーライスは大人気メニューであった。1日に万単位で売れたという。大正12年には家庭でもカレーが手軽に作れる粉末カレーが売り出され、一般家庭にも普及していった。
問3.猫どころかねずみでもできる。Xテレビ放送開始は1953年(戦後)であり、ラジオは1925年である。
問4.グラフが読めればできます。
問5.戦後の食糧難に、農村から廃墟と化した都市へ出て行くかどうかは考えたらわかる。
問6.太平洋ベルト地帯は中学校の地理の教科書に出ていたなぁ。新三種の神器がどうこうという以前に、1970年ごろに各家庭にコンピュータがあると思うかどうかである。
問7.X産業構造が高度かすると第一次産業人口が減り、第二次産業→第三次産業へと移っていく。専業農家が減って兼業が増え、いわゆる「三ちゃん農業(じーちゃん、ばーちゃん、かーちゃん)」になっていくのである。Yはそのとおり
問8.ちょっと戸惑ったかもしれない。@は団塊の世代という言葉が最近また聞かれるようになったので、○かな?と思った人が多かったのではないか。Aは教科書どおりだが、好景気の時は設備投資が行われ、技術が進歩すると中学校の公民の教科書にも書かれている。Bは例の「シフォンケーキはおいしーで」(資本の自由化=OECD加盟)と「貿易は意味不明」(貿易の自由化=IMF8条国へ移行)であり、ともに1964年である。Cこのころは労働基準法により、女性の深夜労働は禁止されていた。1990年代終わりに労働基準法が改正され、女子の深夜労働が認められるようになった。

2007.1.21

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